002.かぶと虫の箱
夏休みの季節。夏休みといえば、読書感想文とかぶと虫です。
読書といえば、ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』、前に図書館で借りたものの、もののミゴトに挫折。
でも「かぶと虫の箱」のたとえ話が印象に残って色々思い浮かんでるうちに、勝手な挿絵になりました。
以下、ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』第Ⅰ部読解 293 から引用—
さて、人は皆自分自身についてこう語る:「私は、私自身の痛みからのみ、痛みの何たるかを知るのである!」
――そこで、人は皆或る箱を持っている、としよう。その中には、我々が「かぶと虫」と呼ぶ或るものが入っているのである。
しかし誰も他人のその箱の中を覗く事は出来ない。そして、皆、自分自身のかぶと虫を見る事によってのみ、かぶと虫の何たるかを知るのだ、と言うのである。
――ここに於いて、人は皆夫々の箱の中に異なった物を持っている、という事も可能であろう。
否、それどころか、箱の中の物は絶え間なく[不規則に]変化している、という事すら想像可能であろう。
――さてしかし、このような人々に於ける「かぶと虫」という語が、それでも彼らに於いて、有効に使用されるとすれば、どうであろう?
――そうであるとすれば、「かぶと虫」という語のその使用は、或る物の名前としての使用ではない。
箱の中の物は、そもそも――或るものとしてすら――その言語ゲームには属さないのである:何故なら、その箱は空っぽですらあり得るのであるから。
――その言語ゲームは、箱の中の物を素通りする事によって、「短絡させられる」事が可能なのである;箱の中の物は、たとえそれが何であれ、無くされ得るのである。
即ち、こうである:もし人が、感覚の表現の文法を「対象とその名前」というモデルに従って構成するならば、その対象は、無関係なものとして言語ゲームの考察から抜け落ちるのである。
—以上、引用(読みやすさのために改行を追加)
“箱の中の物を素通りする事によって、「短絡させられる」事が可能”ってとこが特に印象的。
箱を持った人も入れ子式に箱に入ってるとことかは途中で脱線して思いついた本文とあわないアレンジです。
たわいないコジツケですが、痛みの感覚(クオリア?)は、世界の感覚までひろがってしまうのでは?とか思ったわけです。
(コジツケとロジックってカタカナで見ると似てますね。)
公開日/2016年08月18日